市長臨時記者会見(平成25年3月21日)

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ページ番号1003627  更新日 平成30年5月23日

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日時

平成25年3月21日(木曜日)午後1時30分~

場所

豊岡市役所東庁舎別館2階会議室

会見事項

第53次南極地域観測隊越冬隊員(本市派遣職員)帰国(資料1-1、1-2)

豊岡市長コメント

 宮下隊員が南極での1年4カ月の任務を終えて無事に帰国してくれました。
 この間、宮下君は越冬隊員の一員としての仕事をしっかりと果たしながら、「さうすぽしんぶん」を発行し、また、南極事業を通じて、豊岡の人たちに南極の情報を伝え、南極へのあこがれや子どもたちの冒険心をかきたててくれました。
 豊岡は、日本の片隅にある小さなまちですが、宮下隊員の活動を通じて、豊岡の子どもたちの意識が大きく外に開かれたとたいへん喜んでいます。同時に子どもたちには、自分たちは豊岡にいたからこそ、直接に南極と結びついた、そのことを通じて豊岡への誇りを持ってくれたのではないかと思っています。
 宮下隊員の活動ぶりを市長として高く評価をし、また感謝をしたいと思います。
 あわせて、派遣を認めていただいた国立極地研究所、越冬隊の隊長・副隊長をはじめ、隊員の皆様の協力に感謝しています。
 また、留守の間、家庭をしっかりと守っていただいた家族の皆様にも感謝したいと思います。
 さらに、応援をしていただいた市民の皆さん、マスコミの皆さん、それから市の職員にも感謝いたします。

本市派遣職員・宮下泰尚コメント

 1年4カ月ぶりに豊岡に帰ってきたのですが、この間、市民の皆様をはじめ、市の職員の皆様、関係各位の皆様の多大なる応援・支援をいただきまして、このように無事豊岡に戻ってくることができました。
 たいへんありがとうございます。
 南極で経験しましたいろいろな出来事をはじめ、南極の素晴らしさなどを子どもたちを中心に、大人の皆様にも広く伝えていけたらと思っています。

質疑応答〔発言要旨〕

(1) 豊岡市長との質疑応答

Q1 宮下隊員の現在の所属はどこですか。今後はどうなりますか。
A1 現在は、植村直己冒険館の職員です。3月下旬に人事異動を発表しますので、今後の所属は分かりません。
 最初の仕事は、子どもたちを中心に南極のこと、南極の経験をとにかく語ってもらうということが中心になると思います。
 そして、極地研究所に本市職員の派遣をお願いした時には、地球環境の典型的な場所に職員を派遣して環境政策を担わしたいと言っていますので、どこかのタイミングでそういった方向を担ってもらうことになると思います。
 しかし、まずは、南極こんな所だとか、こんなにすごかったなどを子どもたちに語ることをしっかりやってもらいたいと思っています。

Q2 今後、越冬隊員として市職員を派遣することを検討しますか。
A2 ぜひ派遣したいと思っています。南極観測隊には、越冬隊と夏隊と二つあり、夏隊でも越冬隊でもぜひ挑戦したいと思っています。豊岡市の職員が南極にいるというだけでもわくわくします。こちらにいても面白かったので、また、ぜひ極地研究所にチャンスをいただいて、職員にもチャンスを与えたいと思います。

(2) 本市派遣職員との質疑応答

Q1 昨日帰国されたのですか。ご家族が迎えに来られていたのですか。
A1 シドニーから成田を経由して、飛行機を乗りついで、伊丹に戻ってきたのが、昨日の午後8時でした。妻が車で迎えに来ていて、夜中に豊岡まで帰ってきました。
 上の息子の卒業式には出席できなかったのですが、今日は下の息子の卒業式があり、ぜひ出たいと思って帰ってきました。

Q2 次男さんは小学校卒業で、ご長男は中学校卒業ですか。
A2 はい、そうです。

Q3 ご家族にお会いになるのは、平成23年11月以来のことですか。
A3 はい、そうです。平成23年11月25日に成田まで家族が一緒に来て送りだしてくれまして、それ以来です。立川市の南極観測センターにいた平成23年7月1日から11月24日までは、豊岡に帰って来ることができましたので、家族に会っています。
 出国から帰国までの間は会えませんでしたが、平成24年7月だったと思いますが、南極観測センターで家族会が開かれました。その時に家族が立川市に来まして、南極と極地研究所をテレビ中継で結ぶテレビ会議があり、家族と5分くらい話しました。

Q4 久しぶりに会われて、二人のお子さんの様子はいかがでしたか。
A4 長男の方がちょっと大人びた顔になっていまして、下の子はそんなに変わっていなかったですが、口がちょっと達者になっているという印象を受けました。

Q5 南極でいろいろなお仕事をされたと思いますが、一番印象に残った仕事は何ですか。
A5 私は、ごみや廃棄物の処理をする環境保全隊員として行きました。日本に持ち帰った後、処理する業者が大変ですので、分別をきちんとしなければなりません。豊岡市ではごみを6分別しているのですが、南極では24種類に分けています。環境保全隊員は2人いますから、ごみの分別は29人に指導したらよいのですが、自治体ごとにごみの分別が違い、違う所から寄り集まっているので、分別を徹底するのが大変でした。
 また、普段私が扱わないような大型の鉄骨や不要資材が廃棄物になりますので、ユニッククレーン車などの重機も使わなくてはいけませんでした。
 そういったことが印象に残っています。

Q6 分別するのは基地内で出るごみですか。
A6 基地で出るごみだけでなく、野外観測に行った時に出たごみや人間の排泄物を全て分けて持ち帰り、昭和基地できちんと分別して処理していました。

Q7 今後どのようなことを伝えていきたいと思っておられますか。
A7 南極は、きれいな自然が残っていますので、その地球環境を守らなければならない大切さを伝えたいです。
 また、地球はこんなに広いんだよ、君たちの知らない世界はまだまだあるよということも伝えられると思います。私が行こうと思ったように、挑戦する心やいろいろなことに挑戦してみようという積極性、いろいろな分野の人とお話しする機会を持つ面白さや刺激も伝えたいです。興味があるから研究者になって、それが南極観測につながっている方もあり、自分が興味があることを仕事にできる面白味も伝えられると思います。
 さらに、どんな場面に出会おうがあきらめずに、これが駄目ならこっちをやってみよう、これも駄目だ、ではこれをやってみようというふうにやっていかないと物事が進まないことが南極では多かったので、あきらめずに努力することも伝えたいと思います。
 環境保全隊員は二人いましたが、例えば車両整備の方とか機械の電気制御の方などは一人、その分野の担当はだいたい一人です。その人が怠けると観測隊の社会は崩壊してしまいます。そのためにプロ意識を持って仕事をされています。そういうことをはたから見てすごいなと思ったことも伝えられると思います。
 観測者の方に聞いたのですが、例えば地球の動きを調べるためには、日本やアメリカ、世界の各国、人が住んでいる所だけでは、地球全体の動きとしては捉えられなくて、人のいない南極や北極など、情報が限られる所で観測することが重要なのだと言われていました。それは、一部分だけを見ていたら駄目で、全体を見つめなければ本当の真実は見えてこないということに思え、いろいろなことを話して、その中の一つでも、うーんと思ってくれるお子さんや大人の方、市民の方がおられたら、私の役目が一つ果たせるのではないかなと思っています。

Q8 実際に南極に行かれて、日本にいた時に思い浮かべていた南極のイメージとの一番大きなギャップは何だったのでしょうか。
A8 極地研究所に居たときに何枚か写真を見て、土も確かに見えていたのですが、南極は白い大地、真っ白な世界だと思って行きました。とにかく白い寒い世界だというイメージで私は行きましたが、ヘリコプターで「しらせ」から昭和基地に送り届けてもらった時に、雪があまりない露岩地帯のような所に降ろされて、見渡すと道みたいなものがありました。観測隊が基地として、町として機能させるので、除雪した道があるのです。思っていた真っ白な世界ではなく、土がかなりあるな、田舎の町というか山の町という感じがありました。最初に昭和基地に入った時に、そこが少しギャップといえばギャップでした。
 南極大陸に行けば私が思っていた真っ白な銀世界でした。平成24年1月3日だったと思いますが、大陸のオペレーションに参加する機会があり、ヘリコプターで大陸に降ろしてもらいました。その時は、私が思っていた銀世界、真っ白な世界、怖いと感じました。

Q9 予想を超える極地でどんなことに驚かれましたか。
A9 寒さに驚きました。野外の観測に行かれた方が機械を少しメンテナンスをするのに、雪上車から作業をされたのですが、手袋をしているのに凍傷になり、指のつめがほとんど全部剥がれてしまったことがありました。非常に怖いと思いました。
 また、昭和基地にいる時、極夜でブリザードなどが来ると、除雪しないと建物が埋まってしまうので、必ず除雪するのですが、気温がぐっと下がる時があります。マイナス30度を超えると、建物の中から外に出て息を吸うと苦しくなります。

Q10 南極から帰って来られて、空気や匂いなど、日本の印象はいかがでしたか。
A10 南極海を北上してくる途中、空気が冷たく寒いときは潮の匂いは感じませんでした。しかし、少し暖かくなってくると、潮の匂いを感じるようになって、ああ帰ってきたという感じがしました。
 人のいない所から人がいるシドニーに最初に降り立ったので、日本に帰国した時より、そこでの印象の方が強かったです。そこでは色が新鮮であったり、人が新鮮であったり、匂いが新鮮であったりしました。
 豊岡に帰ってきたときは、豊岡は寒いなと思いました。

Q11 南極にいたらできないが、帰国したらこれだけはしたいと思ったことはありますか。
A11 家族とのスキンシップといいますか、一緒にいたいと思っていました。というのは、離れていた期間が子どもの受験期であったということが大きいと思います。高校を受験するに当たって、メールで「ああしろこうしろ」、「ああした方がいいよ」などと伝えると、返事を返してきますが、本当に伝わっているのかなという思いがずっとありました。妻もたいへんだろうなとずっと心にありましたので、帰ったらしばらくはずっと家族といようと思っていました。

Q12 南極に行かれて、ご自身の中で、考え方とか一番変化があったことは何ですか。
A12 積極的に何かやってみよう、殻にとじこもらずどんどんいろいろなことを経験していった方がいいと、積極性をより大事に思うようになりました。

Q13 植村直己さんが南極大陸を一人で横断しようとすることに驚いたということでしたが、実際に行ってみるとどうでしたか。
A13 1月3日に、観測隊員6人が南極のS16という拠点に降ろされて、ヘリコプターが帰っていきました。どっちを見ても真っ白、何か小山があるとかそういうものはなくて、とにかく大海原にぽつんと取り残されたような疎外感を感じました。東西南北も見ただけでは分からず、これで方向感覚を失ったら、ここでもし人とはぐれたら、絶対にすぐ死んでしまうと強く感じました。その時は非常に怖かったです。
 植村直己さんは、そこを一人で行こうという訳ですから、ものすごいことだと思いました。

Q14 南極を離れるときは、出るのが惜しかったか、早く帰ってきたかったのか、どんな気持ちでしたか。
A14 早く帰りたかったです。平成24年12月末に54次隊という次の隊が着き、1月いっぱいまでは引き継ぎや整理を兼ねて私たち53次隊と54次隊が一緒に行動しました。その一月の間に私たちが持ち帰る物の準備をしたり、引き継ぎをしたりして、業務すべて引き渡して、2月1日の越冬交代式をします。越冬交代式をしますと、私たちそれまで管理棟に住んでいたのですが、そこにはもう入れなくなります。そして夏季簡易宿舎という別の建物に私たちは住むようになりました。管理権が、越冬交代式を境に変わってしまって、主導権も何もなくなってしまうので、南極にいてもしかたがないような雰囲気になってくるのです。仕事も全部片づけて引き継ぎも終わっているし、後は帰るだけだ、家族に会うだけだという感じになります。もう一度来たい、何度も来たいと口に出して言っている隊員ですら、一度は日本に帰りたいと言って、その頃はうきうきしています。

Q15 もう一回南極に行ける機会があれば、行きたいと思いますか。
A15 私は正直なところ、1年は長いかなと思いました。引き継ぎを受けてこの仕事をしていくのだと思った時とか、だんだん日が短くなっていって、その前にやることをやっておかなくてはいけないと、野外に連れて行ってもらっていろいろな作業をしているときは目新しさもあり、わくわくした気分で何事もできました。6月21日に極夜を迎えて、今度は反対に日が出ない時から反対に日が出るようになると、イメージが半分できていて、半年くらいで帰れたら一番いいいのかなと思ったりすることもありました。
 しかし、それを過ぎると54次隊を迎えるための準備で、燃料を置いておかなくてはいけないとか、発電機もう一度メンテナンスしておかなければいけないとか、基地内の道路の除雪など、仕事がいっぱい増えてきました。
 もう一回行ってみたいかと言われると、半年なら行きたいと思います。

Q16 南極でどのような活動をされていたか、どのように一日を送られていたかをお話しいただけますか。
A16 仕事は、環境保全部門です。
 主な仕事の一つは、紙類、プラスチック類、ごみといわれる部分の廃棄物の分別と管理です。
 二つ目は、厨房から出る排水やトイレの汚水処理で、この二つが大きな柱になっています。
 汚水処理棟という建物の中に汚水処理装置がありますが、その建物が雪のふきだまりの要因になっているということで、撤去する計画があります。撤去は、新しい汚水処理装置を据え付けてからでないとできませんので、その新しいプラント、汚水処理装置の建設という仕事が例年の仕事に加わっていました。到着してすぐの夏期間でないとそのようなプラント工事はしにくいので、「しらせ」から運ばれたプラントのモジュールを組み立てる作業にすぐに入りました。しかし、そればかりしていられなくて、ごみは人が生活する限り毎日毎日出てくるものですから、その日に出てくる廃棄物・し尿の処理もずっとやっていました。そのため、夏は非常に忙しくて、朝は午前6時半に朝食をとり、8時頃から仕事を始めます。正午に昼食をとり、夕食は午後7時。夕食をとった後も、やり残した仕事をして、午後8時まで、遅ければ午前0時まで仕事を続けていました。
 休日は、夏期間は十日に一度しかありません。一月に三日です。このような仕事パターンで一月を乗り切ります。2月になりますと52次隊という隊が昭和基地から帰りますので、53次隊の私たちだけになります。そうなると、観測もその頃には一段落していますので、廃棄物の出方も少し緩やかになります。そこで、夏期間にできなかった廃棄物処理を片付けたりするスタイルに変わってきます。プラントが夏期間でできればよかったのですが、「しらせ」が接岸できませんでしたので、プラント自体の到着が遅れたということもあって、少し食い込みました。そこで、2月に入っても組立て作業を続けていました。
 生活の時間帯は、2月から4月までと極夜明けの9月から12月までの期間は、日曜日と隔週の土曜日が休日となります。その間の5月から8月までは、極夜期なのですが、極夜期は野外での仕事はそうできませんので、完全週休二日制で、土日が休みになります。朝食と夕食の時間も日の出入りによって少しずらされて、朝食は2月から4月までは午前7時、5月から8月までの極夜は午前8時くらいになります。夕食も極夜になれば早まって、午後6時頃になります。太陽の動きによって、生活のリズムを少しずつ変えながら生活していくというような生活スタイルになります。
 廃棄物・汚水の処理は、人がいると絶対しなければならないので、白夜期だろうが極夜期だろうがいつでも変わりはありません。しかし、廃棄物の量は、白夜の活動が盛んな時は多く、極夜の活動が少し落ち着く頃は少なくなります。しかし、人間の出すものは一日同じですので汚水の量はさほど変わりません。
 そして、極夜期でもう一つ加わるのは、環境保全隊員だからということではなくて観測隊員全員なのですが、除雪が多くなります。秋・冬・春にかけて、ブリザードの吹き荒れる回数が多くなります。ひとたびブリザードが吹き荒れますと非常に多くの雪を大陸から運んできます。建物の後ろの風が弱まる所にどうしても貯まりやすく、建物の陰に山ができます。それを、ブリザードが来ておさまったら、すぐに除去してクリアにします。それを放っておけば放っておくほど雪の山が大きくなって手がつけられなくなってしまいますので、ブリザード明けには次のブリザードが来るまでに除去するという体制で、総出で除雪をしていました。除雪は日本で考えているような除雪ではなくて、雪が風に押し固められていまして、剣先スコップ、とがったスコップを足でぐっぐっとしてやっと割れるというような、見た目は雪ですが物自体は氷というような、半分凍っている、雪と氷の圧縮みたいな硬い雪です。人力では限度があり、追いつかないということで、除雪にはショベルカーとブルドーザーをメインに使っていました。操作するのはそのような車両の運転に慣れた設営隊員です。機械整備の隊員や現場監督を経験したような隊員が主に大きな重機を使い、私たちは小型のミニブルドーザーでちょっと狭い所の除雪をするということで補佐し、除雪をしていました。小さなブリザードで一日で作業が終わることもあれば、大きなブリザードで一週間ずっとそればっかりしているというようなこともありました。環境保全隊員の仕事のメインはそういうことですが、後は環境保全隊員だからというのではなくて、隊員の助け合いということで、違った部門の所にサポートに行くこともありました。野外に整備に行くことがあれば、荷物を運ぶ補助員として私たちが参加したり、気象隊員が参加したり、別の部門の隊員が何人かついて、その人のサポートをする仕事をしました。

Q17 南極で忙しい合間をぬって、豊岡市の小学生の授業を行われたり、新聞を何度も発行されたりしておられた活動はハードだったと思いますが、どのような思いで授業をされたり、新聞を発行されていたのか教えていただけますか。
A17 新聞を作ったり、授業のテーマを決めたりするのは大変でした。一晩考えたらすぐにできるというものではなくて、こうでもない、ああでもないと、何度もやり直しをしながら、作り上げていきました。一番に考えたのは、私は何かの研究をしている研究員ではなくて、一般人です。それほど細かく学問的なことが分かるわけではないので、研究者の方から聞いたことをどう話せば、子どもたちや一般の方に分かりやすいかということを一番に考えました。そのようなことを念頭に編集と言いますか、構成を考え、あとは興味のあるようなことをできるだけ載せないと、「南極、あっそう」で終わってしまうので、ちょっと止まってもらえるようなネタはないかというようなことも考えていました。

Q18 授業をされて子どもたちの声を聞かれた時はいかがでしたか。想像していなかった質問が出たりしたことはなかったですか。どんな質問が出ましたか。
A18 思っていたより子どもたちはよく反応してくれました。元気に質問してくれたり、盛り上がった時があったりして、面白かったし、うれしかったです。
 よくあった質問は、「南極では風邪を引かないのですか」、「何を食べていますか」、「どんな動物がいますか」、「オーロラはきれいですか」、「南極でびっくりしたことはなんですか」といった質問がどこの学校も多かったように思います。
 私だけではなく、隊員10から15人ほどは、自分の出身校や関係のある学校と南極授業をしています。私はテレビ会議チームの一員で、カメラを持ったり、マイクを持ったりして、いろいろな学校の授業を見ていましたが全体を通してそのような質問が多かったように思います。

Q19 南極の匂いなど印象に残ったことを教えていただけますか。
A19 南極は匂いがないです。一歩外に出ると草木もありませんし、海も私たちが行った頃は氷が張っていまして、出ている部分はほとんどなかったです。風が少し吹いていますので、音がないということはないです。

Q20 オーロラを初めて見られたときの印象を教えてください。
A20 オーロラを初めて見た時は、なぜか分からないのですがどきどきしました。オーロラは刻々と姿を変えていき、消えてしまったり、強く出たり、気まぐれです。一番最初に見たときは、空全体に雲がかかってグリーンぽい感じでした。何なんだろうということから始まって、それがだんだん強まって渦を巻いたり、カーテン状に姿を変えていき、強まった時におおっと思いました。
 私は、オーロラは細かい砂粒が上から降って来るような印象を受けました。

Q21 オーロラを含めて、驚いた景色はありますか。
A21 大陸氷床が海に落ち込んでくる、岩と岩の間の谷を大陸の氷床が流れ出てくる時に割れて海に落ち込む、そこの景色が壮大です。空気がきれいなので、すぐそこに見えている大陸が3~4キロメートル先で、時速10キロメートルくらいで進む雪上車では、進めど進めど近づきません。そうこうしているうちに目の前にきて、見上げると、遠くでは小さなものに見えていたのですが、非常に高く大きかったです。それを間近に見たときに自然は偉大だ、南極は大きいと思いました。そのような所はあちこちにあるわけではなくて、特定の所しかありません。そこは、昭和基地から20~25キロメートルくらい離れた所で、なかなか行けるところではなく、観測があって行ける所なのですが、たまたま機会に恵まれて感動しました。
 他に驚いたのは、海が凍る場面です。水の上に雪がつくと白い雪原というイメージなのですが、風で雪が飛ばされて、氷がむき出しになっている所があって、そこはきれいに光ります。夕日など、横から光が射すと、きれいにピカピカ光って、非常にきれいでした。昭和基地にいるとそのような景色は見ることができないのですが、沿岸の観測に同行させてもらえると見ることができ、それを初めて見た時にきれいだなと感動しました。

Q22 宮下さんが南極に行こうと思われたきっかけの一つに植村さんへの思いがあったということでしたが、行かれてみて、改めて植村直己さんに対してどのような思いがありますか。
A22 植村さんは、好きで興味があって、いろいろな所に登られたり、南極に行きたいと思ったりされたと思います。普通の人は、例えば私などは、家族を放って自分だけ行ったら家族はどうなるのだと、自分の要求が抑えられている部分があると思うのですが、植村さんは自分に正直という印象があります。奥さんがおられても、行きたいと思えば、ちょっと行ってくるみたいな感じで出かけられていたこともあると思います。自分に正直、自由人、そんなふうに感じます。

Q23 南極に行かれてみて、植村さんに伝えたいことや同じ思いがあると思いますがいかがですか。
A23 私は冒険家ではないので、植村さんと同じ思いを共有できないような気がします。私から植村さんに何かを伝える、そのようなことは、おこがましいのではないかと思います。植村さんは私たちに何かを伝えようと思って行動していたのではなくて、結果的に植村さんの純真な素直な心が私たちに何かを伝えているということではないかと思います。

Q24 南極観測隊の隊長以外の隊員も植村直己さんの故郷が豊岡と知っておられたのですか。
A24 観測隊員の中には、普段から山登りが好きで山登りをしている方や学生時代に山岳部に入っていたといった方が結構多かったです。そういった方に話を聞くと、植村直己さんは当然知っているし、「青春を山に賭けて」という本を読んで非常に興味を引かれたとかいう話を聞く機会はいっぱいありました。
 しかし、植村さんの出身が豊岡市ということは誰も知らなかったです。豊岡というまちが日本のどこにあるかということも、大阪や京都に住んでいたことのある方は知っていましたが、関東圏の人は一人も知りませんでした。兵庫県の北部、日本海側と言っても、日本海まで兵庫県がつながっているということすら、認識されていない方もありました。
 昭和基地では越冬中の空いた時間を利用して、南極大学という講座を設けています。隊員一人一人が講師となって、自分の好きなことを他の隊員にレクチャーというか、講演をします。自分の趣味の話をする方もあれば、自分が旅行に行って感動した時の話をする方もあるのですが、私は豊岡の宣伝をしました。これで、全員に豊岡市を認識してもらえたのではないかと思っています。

Q25 南極での経験をどのように生かしていきたいですか。
A25 なかなか行くことができない所に、観測隊員として行かせてもらった訳ですから、私の体験、私が感じたことをできるだけ伝えていくということが、今後の私の責任になると思います。

Q26 具体的にこれだけは伝えたいということがありますか。
A26 心の面です。もちろん南極の自然は壮大で、きれいでということも伝えたいのですが、それだけではなくて、自分がやってみようと思ったことがあれば少しの障害があっても、何とか説得して挑戦してみるということが大切で、そのきっかけになればいいと思います。それが、スポーツでも、音楽関係、学問でも、何でもいいと思います。ちょっと難しそうなことに出会うと、無理と思うこともいっぱいあると思いますが、そこで背中を押してくれる何かがあれば、何かを掴めるかもしれません。そこで立ち止まらないという心の面が伝えられたら一番いいのではないかと思います。

Q27 南極に行かれてよかったと思うことがありますか。
A27 私は今回、南極観測隊に参加したからこそ、普段は絶対会わないであろうオーロラを研究している研究員や地球の動きを観察している研究員など、いろいろな研究員に会うことができました。その財産というのは大きいと思います。私の知らない世界を見れた、経験できたということがよかったと思います。

Q28 南極で仕事以外に楽しかったこと、ひそかな楽しみは何でしたか。
A28 南極は6月21日が冬至になります。南極では、6月21日にミッドウィンター祭というのがあちこちの基地で開催されます。昭和基地でも毎年開催していまして、本祭3日間、準備・片づけを入れると5日間になります。この日は露天風呂に入り、この日はこんな出し物をするなど、イベントは隊員だけで企画します。それは企画段階から楽しいです。隊長がアイスドームを以前に作った経験をお持ちで、今年は氷のドームを作りました。直径が5メートルくらい、高さが3メートルくらいの氷のドームです。中で火を焚いたり、光を出すと、外にぼうっと光がもれ、非常にきれいでした。その写真をグリーティングカードの表紙に使い、各国の基地と交換しました。気温がマイナス40度を超えて非常に厳しい環境の中での作業だったのですが、非常に作りがいがありました。祭の期間、ずっとドームを活用して、アイスバー・飲み屋を作ったりして、とても楽しかったです。

Q29 「しらせ」が接岸できないことはよくあることですか。
A29 私たちの時の平成24年は18年ぶりに接岸できなくて、さらに今年・平成25年も接岸できませんでした。2年連続して接岸できないのは、非常に大きなことで、珍しいことです。

Q30 南極で暮らす中で面食らったことはありますか。
A30 ブリザードの時のホワイトアウトです。ブリザードは風が非常に強くて、雪を巻き上げて吹き付けるのですが、そこに見えている物が見えないのです。自分の手の範囲はなんとか見えますが、それを超えると見えない時があります。その時は建物から建物へ、どうしても移動しなければいけない時が出てくるので、そんなときに無防備で一人で出て、風にふっと流されると死んでしまいます。そうならないように、建物と建物の間にロープを張り、そのロープと体を結わえて、そのロープを持って伝って歩きます。たとえ手が離れたとしても、ロープで結束されているので、飛んでいってしまうことはありません。そのロープをたどっていけば何とか建物にたどりつけるということでそうしてあります。基本的には、風速が25メートルになると外出注意令ということで、特別な用事がなければ出てはだめということになります。
 風速30メートルを超えると外出禁止令になりまして、何があっても出てはだめと隊長から命令があります。私たちは出ないのですが、観測系気象隊員などは、24時間、365日交代ですので、どうしても出なくてはならなくて、その方たちは非常に怖い思いをして行き来しておられます。

Q31 ご家族はどのように迎えられたのですか。豊岡に帰って来られたのは何時ですか。
A31 妻だけが伊丹空港に迎えに来てくれました。上の子は豊岡で寝ずに起きて待っていました。
 豊岡に帰ってきたのは今朝の2時です。次男は今日が卒業式ですし、まだ小学生なので寝ていましたが、のぞきに行くと起きました。

Q32 ホームシックになりましたか。
A32 子どもの受験のことで、妻の心労といいますか、悩みを聞いていると、帰りたいな、家族の一員として参加したいなと思うことはたまにありました。

Q33 南極からの連絡は電話ですかメールですか。通話制限などはありませんか。
A33 どちらもできますし、メールはいつでもできます。
通話制限はありません。たまたま私たちの53次隊は、KDDIが携帯電話のテストをしていた期間でした。テストを兼ねてこの携帯電話を使ってよいということで貸してもらっていたので、通話料は無料でした。普通の携帯電話をテストを兼ねて1年間使用していましたが、私たちが帰る頃にはテストが終わって使えなくなるということでした。
 業務的なことでしたら、極地研究所に内線が通じています。南極との専用線だと思いますが、それは無料で、立川市から豊岡市までの国内通話はお金がかかります。

Q34 体重の変化など、身体の変化はありましたか。
A34 「しらせ」に乗っている頃は、食べて、二人部屋の部屋に戻ってパソコンする程度で運動をしないので、5キログラムくらい太りました。しかし、昭和基地に降りて作業が始まったとたんに、5キログラムくらい体重が減り、普通に戻りました。越冬期間になった時は、体重が増える方は増え、減る方は減るということで、両方あるように聞いていたのですが、私は少し減った方で、そこから1年間で2キログラムくらい減りました。2月10日に作業を終えて、帰りの「しらせ」に乗っていた一カ月間は、おそらく5キログラムくらい太っています。

Q35 今回の南極行きは、新しい「しらせ」の初航海でしたか。氷は厚かったのですか。
A35 2年目の航海だったと思います。
 氷が4~6メートルくらいあり、さらにその上に積雪が1~2メートルあったようです。雪がクッションになります。「しらせ」は3メートルの氷ならどんどん割って進める性能を持っているようですが、その倍くらいの厚さの氷になっていました。氷は割れるのですが、1回に10メートルくらいしか進めません。それをずっとしていますと帰りの燃料がなくなり、ある程度の所で切り上げないとどうにもならないということでした。「しらせ」は何日には帰還しないといけないということもあり、燃料や日程の関係でギリギリの所まで進むけれど、それ以上は断念ということで、今年もそうなりました。その時は、雪上車で氷の上を荷物を引いて走っていく氷上輸送が良く、私たちの時の昨年は何とかそれができました。
 しかし、今年は氷が太陽の熱射で溶かされて水溜りがいっぱいできていて、氷上輸送が全くできず、ヘリコプターだけで荷物を運びました。コンテナだと一つのコンテナに5トンくらい積めて、それを一つ二つつないで引っ張れますが、ヘリコプターだと最大3トンで、非常に効率が悪かったです。さらにヘリコプターが途中で調子が悪くなり、輸送が打ち切られてしまいました。ヘリコプターの輸送も途中で止まったので、優先して持ってきた最低限の物しか昭和基地に運べず、私たちが整理した220トンくらいの廃棄物を持ち帰る予定だったのですが、持ち帰れたのは750キロのスチールポンプだけでした。

Q36 南極から帰られて、普通の市の職員に戻られていかがですか。
A36 今日、市の庁舎に入ってくるときに「お帰り」と職員の皆さんが歓迎してくれましたが、普通の人でありたいと思いました。学校に行って、南極の話をして、機嫌よく帰ってくるのがいいと思っていますが、最初は目新しさもあって、子どもたちもわぁっと寄ってきます。

Q37 豊岡で温泉に行かれますか。南極ではお風呂はどうでしたか。
A37 今晩、城崎温泉に行きます。南極での風呂は、半月に1回くらいしか水は入れ替えない循環風呂ですが、毎日入れます。浴槽は3人くらいが入ってちょうどよいくらいの浴槽が一つ、シャワーが三つありました。発電機の熱などでお湯を温めて、フィルターでろ過して、循環させています。1週間から2週間経つと水自体が臭ってきます。そうなると、外作業ができるときは水を変えないのですが、ブリザードで外に出られない時、中で作業する時に掃除をして水を入れ替えます。

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