豊岡「鳥井家文書」に書き残された江戸時代の天気

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ページ番号1024329  更新日 令和6年9月20日

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 鳥井家文書は江戸時代の豊岡(現在の中央町)で名主を務めた鳥井家によって書き継がれ「公私之日記」と呼ばれる日々の記録を主としています。

鳥井家文書(公私之日記等)について

 鳥井家文書は豊岡の久保町(現在の豊岡市役所東側)で町名主を務めた鳥井家(屋号「糀屋」)によって引き継がれた120点余りの資料群です。一連の文書群は『公私之日記』を主体とし、市指定文化財として現存しています。

 鳥井家文書のうち、最古のものは1762年(宝暦12年)に長五郎(実名・代数不明)によって書かれた『御用帳』です。その後、空白期間を経て1773年(安永2年)から忠左衛門(実名・代数不明)による『旧記』、1794年(寛政6年)から7代目の山五郎義根による『旧記牒』『御用旧記』と題された記録が続いています。『御用帳』『旧記』とあるように、江戸時代中期における豊岡5町の旧記をはじめめ各資料の写しが書き加えられています。

 鳥井家の当主として最も長く日記を書き続けた7代目の山五郎義根は1808年(文化5年)に鳥井家当主の通称「忠左衛門」を継ぎ、寺町兼帯名主・永井町分庄屋となりました。日記の表題も『寺町・久保町・永井町分役用並に私用共旧記』と私的な記録を含むことを示し、1810年(文化7年)に『公私之日記』という表題を用いるようになりました。1811年(文化8年)にはいったん『公私之雑録』と変わりましたが、1816年(文化13年)には再び『公私之日記』となりました。

 1838年(天保9年)には子の山三郎義修へ名主職が引き継がれ、同時に日記の書き手も交代しました。義修は1841年(天保12年)に忠左衛門を襲名して鳥井家の8代当主となり、1862年4月(文久2年3月)まで義修による記録が続きます。この間の1839年2月14日(天保9年1月1日)から1846年6月7日(弘化3年5月14日)までは隠居した先代の義根(号「自白」)が記した『隠居之日鑑』が『公私之日記』と並存しています。

 1862年(文久2年)には、日記の書き手が義修の子に当たる山三郎義実(9代)に代わり、1876年(明治9年)2月まで書き継がれました。

 鳥井家公私之日記には1817年2月2日(文化13年12月17日)から1876年(明治9年)2月29日まで日々の天気も書かれていることから、市立歴史博物館での企画展「円山川の付け替えと水害史」等に合わせ、このたび日々の天気に関する記録を取りまとめました。

台風とみられる事例(1816年9月)

 「台風」が日本語として使われ始めたのは明治時代で(例えば、岡田、1908)、これ以前の文書には「大風雨」などと書かれています。

 1816年9月24日~25日(文化13年閏8月3日~4日)の大風雨は深刻な被害を出し、24日の夜には「いせち風」を伴ったと書かれています。この「いせち風」とは南東か北東の風を指します。

 同じく豊岡に残る由利家公私之日記には25日は北風が強かったと書かれ、豊岡では東寄りから北寄りに風向が変化していたようです。荒川ほか編(1961)によると、京都では25日に南東風が吹いたという記録もあります。

 これらから反時計回りの渦である台風が豊岡と京都の間を通過した可能性もあります。


<引用文献>

岡田武松(1908):『気象学講話 附録 簡易気象観測法』

荒川秀俊・石田祐一・伊藤忠士編(1961)『日本高潮史料』気象史料シリーズ1、気象研究所

1816年の水害の様子を記した鳥井家公私之日記
文化13年閏8月の大風雨では「いせち風」が吹きました。

夏から秋の事例(1836年)

 豊岡では7月下旬ごろから8月にかけて晴れて暑い日が続くことがあり、江戸時代も大まかには同じで、当時の人も暑さには非常に苦労したようです。

 ところが、1836年(天保7年)は雨の日が多く、公私之日記では7月13日(5月30日)から7月22日(6月9日)まで、また、8月10日(6月28日)から8月20日(7月19日)までにかけて連続して雨が降ったと記録されています。7月から9月にかけては全体の64%の日で雨が降り、1817年から1875年までの平均値(41%)を大きく上回り、この期間で最も高い値でした。

 10月10日(9月1日)には「当年稀代之凶年、米穀払底莫大之高値」とあり、天保の飢饉としても知られる全国的な飢饉と対応し、凶作などから米の値段が高騰したことが分かります。

 これに対し、沖縄には干ばつの記録があり、太平洋高気圧が南に偏り、本州付近への張り出しが弱かったのかもしれません。


<参考文献>
沖縄気象台編(1992):『沖縄気象台百年史 資料編』、沖縄気象台

冬の事例(1828年と1829年)

 1828年は積雪が浅く、Zaiki et al. (2009)は東京や長崎に残る気圧や気温の観測値から日本付近では西高東低の気圧配置が弱かったと指摘しています。このように気圧の傾きが小さかったことを示す間接的な証拠として、鳥井家公私之日記には1828年1月24日(文政10年12月8日)に「珍敷寒中ニ而天気打続、魚類沢山来(寒中にしては珍しく好天が続き、魚類が多く手に入った)」との記載もあり、波が穏やかで漁がしやすかったことが反映された可能性もあります。

 翌1829年は2月7日(文政12年1月4日)に積雪が6尺(約180cm)に達しました。水越(1990)によれば、京都では2月5日から13日にかけて晴れの日が連続し、この間に淀川が結氷するなどしています。このことから近畿付近では冬型の気圧配置が続いたと考えられます。

 年によって冬の天候が大きく異なる点は、今も昔も同じでした。


<引用文献>

水越允治(1990):「異常気象」(豊岡市史編集委員会編『豊岡市史』史料編上巻、845~854ページ)

Zaiki, M., Können, G.P. Kimura, K., Mikami, T. and Tsukahara, T.(2009): Reconstruction of historical pressure patterns over Japan using two-point pressure–temperature datasets since the nineteenth century. Climatic Change, 95, pp.231-248

829年2月(文政12年1月)の大雪のようすを記した鳥井家公私之日記
1829年2月7日(文政12年1月4日)には積雪が6尺(約180cm)に達したと書かれています。

天気一覧表の利用にあたって

  • 公私之雑録と公私之日記について、2022年12月27日に旧暦10月から2月までを中心としたデータを公開したのち、2023年10月23日に旧暦5月から9月までを中心としたデータを追加公開しました。
  • 主に旧暦1月、2月、5月から12月の天気を掲載しています。3月と4月は作成中です。
  • 「記載あり/未抽出」としている日は、当日の天気の記載がありますが、市側での抽出・入力が未完であることを示します。
  • 隠居之日鑑について、全期間のデータを2024年9月20日に公開しました。
  • 二次利用する場合は「豊岡市提供」「豊岡市作成のデータから作図」などと出典を明記してください。申請は不要です。
  • 公共性や品位を損なう恐れのある利用はせず、加工・改変後の資料を市が作成したような態様で公表しないでください。
  • データは修正する場合がありますので、利用の際には最新のものをご確認ください。
  • データの利用に伴う利用者または第三者に生じた損害について市は一切の責任を負いません。

鳥井家文書の閲覧などについて

 一部の史料画像は豊岡市立図書館「郷土資料デジタルライブラリ」で閲覧できます。今後順次追加します。詳しくは豊岡市立図書館ホームページを確認してください。
 また、『豊岡市史』史料編上巻に一部の翻刻があります。

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