市町合併までの各まちの歴史

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ページ番号1002340  更新日 令和3年9月17日

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豊岡の歴史

 豊岡盆地は、人類の歴史が始まったころに干陸化し平地になったといわれています。海抜5メートル以上の盆地周辺からは貝塚や縄文遺跡などが数多く発見されており、旧石器時代に人々が住み着いていたことが推測されます。大正2年に発見された中谷貝塚からは縄文時代の人々の重要なタンパク源であった貝類の殻を中心に、生活用具である土器、石器が出土しています。
 大化の改新の頃の条里制跡が残っており、10世紀初めごろに編纂された『延喜式』によると、本市域を含む但馬地域は当時の都である京都に近接しているという地理的関係である「近国」と規定され、国の大きさや重要性など社会、行政的な関係を示す「上国」に編入されています。
 羽柴秀吉による1569年の但馬の山名勢攻略後、1580年に秀吉の武将宮部善祥房が神武山に城を築き、城下町の形成に着手したのが豊岡のまちの始まりであるといわれています。

 その後、豊岡城主は幾多の変遷を経て、1668年に京極高盛が丹後田辺城(現在の舞鶴市)から移封されて以来、豊岡は城下町、商工業の町、人と物の集散地として経済的基盤を強め、明治以降の発展の基礎を確立しました。

明治4年の廃藩置県で、但馬8郡、丹波3郡、丹後5郡を管地する豊岡県が設置され、本市域はその県庁所在地となりました。明治9年には府県の再統合によって豊岡県は解体され、兵庫県と京都府に合併しました。

 明治22年の町村制施行により、豊岡町ほか9か村が誕生しましたが、豊岡町は昭和8年に八条村、昭和18年に田鶴野村及び三江村と合併しました。そして昭和25年には豊岡町と五荘村、新田村、中筋村が解体合併し、総面積80.8平方キロメートル、人口31,610人をもって、県下で10番目に市制を施行しました。さらに昭和30年に奈佐村及び港村を編入し、昭和32年に神美村の一部を、昭和33年には日高町の一部を編入して市域が形成されました。

参考文献:『豊岡市総合計画』より

城崎の歴史

 城崎町は山深く冬のながい但馬地方の中にあって、古くから著名な温泉地として栄え、但馬地方でも特異な地域として今日まで比較的順調な発展を遂げてきています。

 城崎町にある城崎温泉は、約1400年もの古い歴史を持つといわれ、こうのとりが傷を癒したと伝えられる鴻の湯、道智上人が難病治療を願って曼陀羅を修めて掘りあてたと伝えられる曼陀羅湯の二つの温泉の発祥がそれを物語っていますが、平安時代の古今和歌集に「但馬の国の湯へまかりける時、二見の浦と云う所にとまりて…」(藤原阿法師)とあるように、すでに1000年以上も前から都の貴人がはるばる城崎の温泉に赴いていたことが明らかにされています。

 その後、貴人、高僧、文人墨客の来遊が続きましたが、江戸時代になると温泉医学を大成した香川修徳が城崎温泉の新湯を日本一の湯と推賞したりしたことによって城崎温泉の名声は大いに高まり、大衆客も多く来湯するようになって、宿屋も発生しました。宿屋は、その後次第に数も増して、幕末には宿屋組合も組織され、63軒が官許されました。

 明治に入って、日清・日露両戦争の影響を受けて、一時期不振な時を迎えたものの、その後の日本経済の好景気と明治43年の山陰本線の開通によって、城崎温泉は、京都ばかりでなく、広く阪神その他の地方からも浴客を迎え入れる、日本屈指の温泉地として、その礎を築きました。文豪志賀直哉がこの地を訪れ、有名な「城の崎にて」を書いたのは大正2年のことでした。

 こうして発展してきた城崎温泉にとってもっとも決定的な出来事は、大正14年に発生した北但大震災でした。北但大震災は、温泉市街地を見る影もなく壊滅しました。しかし町民の努力によって、市街地の復興は驚くべき速さで進められました。大谿川を骨格とする温泉街づくりは区画整理事業によってなされましたが、和風を基調とした町並み景観や街路景観、外湯のイメージアップ、防災的市街地の形成などが重視され、三方が山に囲まれた山間地にあって、まとまりある落ち着いた雰囲気の市街地が形成されて、以前にも増して城崎温泉の名声を世に広めました。「この復興最中の城崎に来て、激しい暑さと疲労とを忘れさせるような楽しい温泉宿にたどり着いたという感じは深かった」と大震災の翌年城崎を訪れた島崎藤村は、その当時の印象を「山陰土産」の中に記しています。

 第2次大戦後の経済復興、昭和30年代に始まる高度経済成長を通じて、大衆消費時代ともいわれる国民の消費生活の変化が進行し、観光志向は増大の一途を辿ってきました。その結果、観光客はさらに大衆化し、旅館を増大させるとともに、旅館経営の近代化、合理化を促進しました。こうした動向の中で、和風を基調とした城崎温泉にも大規模なホテルが出現し、旅館の増改築も進んでいきました。

 城崎は古くからの伝統や遺跡を守り、外湯を中心とした情緒豊かな町並みを残し続け、関西有数の温泉街として多くの人々に親しまれています。

参考文献 :「城崎町総合計画」より

竹野の歴史

 竹野町は、3,500年位前までは、現在の海岸線から5キロメートル上流付近まで海が入り込んでいましたが、次第に干陸化し、約2,000年前に現在の海岸線が形成されました。
 各集落は竹野川に沿って散在しており、昔から海の幸、山の幸に恵まれていました。
縄文土器が「松本」から、弥生土器が「阿金谷」から出土し、また須恵器の窯跡が「鬼神谷」で発見されるなど、古くからの歴史があることがうかがわれます。
 中世になって、山名宗全の祖父山名時義が竹野に入り、「須谷」の円通寺を建立するなど、但馬制覇の拠点を竹野谷に求めました。

 戦国時代には、山名氏の家臣、垣屋氏が塩と米を確保するため、「轟」に青葉城を築き、竹野谷の要としました。

 江戸中期から約100年間、竹野浜は北前船で賑わい、商工の町として繁栄しましたが、明治以降、鉄道の発達により北前船は姿を消していきました。
 明治45年3月の山陰線全線開通により、竹野鉱山(金鉱)が大々的に開発され、一時期隆盛を極めましたが、昭和24年秋、竹野鉱山は閉鎖されました。

 幕末まで三椒・奥竹野地区は久美浜代官所に、竹野・中竹野地区は出石藩に属していましたが、明治4年7月、廃藩置県が施行され、豊岡県の所管となり、明治9年豊岡県が廃止され、兵庫県の管轄となりました。

 明治22年の市町村制により、竹野村、中竹野村、奥竹野村、三椒村が誕生し、昭和30年3月3日、町村合併によりこの4村が合併し竹野村が誕生、2年後の昭和32年4月1日、町制を施行しました。

参考文献 :「竹野町町勢要覧」より

日高の歴史

 神鍋山山麓で縄文時代前期の住居跡や貯蔵穴が多数の土器片や石器とともに見つかっています。

 稲作が一般的に行われるようになった弥生時代には遺跡が平地部に分布するようになり、久田谷遺跡からは小さく壊された銅鐸が発見されています。
 古墳時代には、町内各地の尾根を中心に多数の古墳が作られています。
 奈良、平安時代には、但馬の役所である国府庁や聖武天皇の詔勅による国分寺、国分尼寺が建立され、但馬の中心地として栄えていました。国分寺は昭和48年以降の発掘調査で金堂、塔、中門などの主要伽藍のほか、寺域の東西を区画する築地も見つかっています。

 戦国時代には山名一族の四天王・垣屋氏が町内のほぼ全域を治めていましたが、羽柴秀吉に制圧されました。

 近代には明治42年に山陰本線江原駅が置かれ、商工業発展の基礎となり、昭和30年に6町村(国府、八代、日高、三方、清滝、西気)が合併し、現在の日高町が誕生しました。国府駅は昭和23年に設置されました。

 昭和32年、昭和40年には、国民体育大会冬季スキー競技会が神鍋高原で開催され、西日本屈指のスキー場として知られるようになり、今ではスキーをはじめ、テニス、キャンプ、ゴルフ等スポーツレクリエーションのメッカとしての環境と設備を整えています。

 平成2年かんなべ温泉浴場、平成5年植村直己記念スポーツ公園、平成6年植村直己冒険館、かんなべ湯の森ゆとろぎ、平成10年但馬ドーム、湯の原オートキャンプ場がオープンしました。また、十戸温泉の虹鱒川釣り、阿瀬渓谷の森林浴場や48滝を巡る遊歩道などが整備され、四季型観光地として発展してきています。

参考文献 :「日高町総合計画」より

出石の歴史

 出石町の歴史はたいへん古く、「古事記」「日本書紀」にも出石の地名が記されています。但馬開発の祖神といわれる新羅の王子 天日槍命が、垂仁天皇3年に帰化してこの地を拓いたと伝えられ、町名も天日槍の宝物である「出石小刀」に起因したといわれています。また、古くは但馬の国衙が置かれていたとも伝えられ、袴狭地区にある砂入遺跡からはこのことを裏付けるかのように「人形」や「斎串」といったお祓いの道具が大量に出土しています。

 室町時代になると、守護大名の雄、山名氏が本拠を構え繁栄をきわめました。その後、6分の1殿(日本の6分の1の意味)と呼ばれ、宗全のときに応仁の乱を起こしたことでも有名である、幕府最大の実力を誇った山名氏が滅亡。

 近世には小出、松平、仙石氏が相次いで居城、5万8千石の城下町として、また但馬地方の要衝として栄え、明治維新にいたりました。
 明治4年の廃藩置県にともなって出石藩は出石県と改められましたが、その年の12月に豊岡県に編入、出石郡は豊岡県第2の大区となり、自然村は小区と呼ばれるようになりました。
 明治22年の市町村制の実施により自然村は合併し、出石郡は出石町、室埴村、小坂村、神美村、資母村、久畑村、合橋村の1町6村となりました。

 昭和28年の町村合併促進法施行にともなって県は出石町と室埴村、小坂村、神美村を合併モデル地区に指定、4年間におよぶ協議を経た後、昭和32年に神美村の穴見地区を除く1町3村が合併し、新しい出石町が誕生しました。

参考文献 :「町勢要覧」より

但東の歴史

 但東町は古くは各地の土豪が分割領有しており、各地に存する古墳はそれらの土豪を葬祭したものと推定できる。垂仁天皇3年、出石神社の祭神天日槍が来朝し、円山川と竹野川流域の但馬が統一されたのに従い、その領有に帰したものと思われます。

 その後、但馬も大和朝廷を奉じ、国府が置かれ但馬守が来任するころには、郷・村・保等も整い、鎌倉期になって荘園が置かれ、荘司が政治をとるようになり、ことに承久3年(1221年)但馬守護太田昌明の本拠地となったころ管理はようやくゆきとどくようになり、文化も次第に向上する機運に乗ったといわれています。

 太田氏4代の後に仁木氏を経て、但馬を本拠とする山名氏が入部し、また家運も長く続いたので山の谷々まで比較的平和な日が多かったものと想像されます。次に諸侯封建の時代には出石の小出氏、仙石氏の来地でありました。但東町を一般に「山之内」と呼んでいるのはこのころからと思われます。小出・仙石の交代以後には倉見領もあり、また生野・久美浜の代官に支配される「御領」も錯雑していました。

 明治の廃藩置県から出石領は出石県、代官支配地は久美浜県に属し、明治4年豊岡県に統一され、明治19年兵庫県となりました。兵庫県になった後も郡名は出石郡と呼ばれ出石町ほか6カ村で構成されていましたが、昭和31年9月30日に、旧合橋村、高橋村、資母村の3村が合併し但東町が誕生しました。京都府に突出しているという地理的条件から京都文化の影響が非常に強く、特に特産である絹織物は京都西陣と深い関係があります。

参考文献 :「但東町農村総合整備計画書」より

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